2005年07月28日

高柳昌行 / カダフィーのテーマ

カダフィーのテーマ

ここにある音楽はどこにでもあるものではないけれども、この音楽を文章にしようとすると、どこにでもある文章になってしまいそうな気がします。

それは私自身の決定的な文章力不足によるものであることは勿論ですが、それだけではなく、相当の覚悟と真剣さを持って挑まない限り、「嵐」「混沌」「奔流」「ノイズ」「静寂」「極北」という言葉を用い、それらの中にある(ような気がする)甘美な感覚を指摘してお茶を濁す・・・というような結果は避け難いからです(この作品について書かれた他の方の文章を指しているのではなく、私のイメージです)。

私には、この音楽が優れたものなのか、そうでないのか、判断がつきません。優れた音楽という言葉も曖昧なもので、別に優れた音楽でなくても構わないのだけれども、自分にとって優れた音楽であるのか、否か、という以上の判断基準を私は持たないので、折角買ったのだから、私にとって優れた音楽であって欲しいという気持ちは確かにあるのですが、それは絶対的なものではありえません。

どちらかといえば、このような表現に至った人の弾く、一般的なスタイルのギターにこそ(レコードコレクションと蔵書も)興味があります。というよりも、その変遷と、表面的には違って聴こえるスタイル同士へのフィードバックに、とした方が正確かもしれません。

だから、持っていないCDを見つけると、決して日常的に聴くタイプの音楽ではない(スタイルによらず、真剣に聴くと、なんだか神経が消耗してしまう)ことは認識しつつも、買ってしまいます(常に流通しているようなタイプの音楽ではないので、「あるときに買わなくては!」というのもありますが)。そして、一枚一枚がとても大切に思えるのです。

このアルバムはライブ録音ということですが、その演奏風景はどんなものだったのでしょうか(写真は何枚か見たことがありますが、謎は膨らむばかり)。そして、観客はどのような気持ちでそれを観て、聴いていたのでしょうか。決して貶すとか悪い意味ではなく、このようなライブにお金を払って通うというのは、なんだか不思議な気持ちがします。

このような表現に至った心境、その論理とは、如何なるものか。

音が粒子であるとすれば、その成分のココとソコを繋いでいけば旋律を結ぶような気がするので、人それぞれ、その都度(CDで聴く場合)違うものが聴こえてくるのかもしれないし、聴きこむうちに決定的旋律というものが浮き上がってくるかもしれません(意識によって導かれる、偶然性との有機的結合)。或いは、無意識のうちにも旋律を探してしまうような、安直な姿勢に対する否定なのか・・・もっと大きく全体を音響彫刻として受け止めるべきなのか・・・

とても気になる作品です。
posted by siesta at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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